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井出正人著『満天星』より その10 -山村川内の幕末史 幕末騒憂のかわうち その1-

 代表もまた満点星の世界と交錯していた。本日登場する上川内村の名主だった秋元家というのがお袋方の本家になる。そして、高校時代には平城跡のすぐ近くに住んでいた。城跡の裏側の磐城女子高(現在の磐城桜が丘高校)の、そのすぐ裏側の「ひつじ荘」というアパートに一年ほどお世話になった。毎日、平城跡という意識もなく、堀のそばの日当たりの悪いジメジメした道を平駅まで行き、そこからバスに乗って鹿島街道沿いにある学校まで通ったのだった。

 もし、今平城が残っていたとしたら、平駅の裏側にこんな感じに見えるらしい。

【写真:平城再現イメージ <ネット上より借用>】
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 あの当時、代表も山村川内の幕末史の、複雑な綾の中の結び目のひとつなんだと教えてくれる人がいたら、この風景を見る目もまた変わったものになっていたと思う。だが、閉ざされた阿武隈山地の狭隘な隠れ里から地方都市にひとりで飛び出した代表には、そんなことを諭してくれる知己はなく、過去に思いを馳せている余裕もなかった。毎日毎日、価値観がガラガラと音を立てて壊れていくような強烈な体験の連続に興奮し、歓喜し、傷つきもして、かろうじて自分を保っていた。あれが代表にとっての幕末だったと言えるかもしれない。

 本日は『満天星』から山村川内の幕末史の第8回目。慶応四年、六月に入って西軍が東進してきてから、七月十四日夕刻に平城から上川内村に落ち延びてきた安藤正信が長福寺に入るまで、そして、平藩の数百人が正信公の後を追って川内村に入ってきた十六日までの村始まって以来の騒動の様子を、正人氏がダイナミックにリポートします。
『 井出正人著『満天星』より その10 -山村川内の幕末史 幕末騒憂のかわうち その1-

慶応四年と言ふ年、日本は大激動の年であり、我が川内でも開闢以来の村がひっくり返るような大動乱の年であった。六月に入って平城が西軍に攻撃されるとの風聞が流れたが、こんな山奥は心配あるまいと村人は語っているところへ・・・・・・。

 六月二十四日、棚倉城落城し応援の相馬中村兵七十名ばかり上川内村へ落ち延びてくる、その内の一人が手負いの為歩けなくなり人足を出し山かごに乗せて猟師を案内に毛戸を通り野上村(現 大熊町)まで送りとどける。

 やれやれと思っているところへ、六月二十九日、西軍が長橋方面より平城を攻撃したが、本城より大砲にて打ち負かし湯長谷方面へ敗退させる。七月一日になって荒川口、矢川瀬の方より攻撃され大合戦となり、相馬、米沢勢の応援にて又々打負かしたとの風聞が入る。

 三日、富岡代官所より上川内村、下川内村より猟師七人ずつ五日替りに差出すように命令が通達され村中騒然たり。

 四日になって、平城が危ないと言ふので、戸渡橋をを切りふさぐことになり両村より人足を出し多勢で峠の裏側を切りふさぐ、そこへ相馬鹿島在大内村静左衛門と申すもの人足数人をつれて参り新田坂合戦にて西軍に生捕られ三日間働き逃帰るとの由、富岡役所へ参る。相馬の人足に相違なく相馬へ引渡す。

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 五日、相馬中村藩兵百人ばかり上川内村へ繰込。井出金右衛門(後裔者 井出正名)を陣所とし民家へ分宿する。このさわぎで上川内久保、安三郎の妻が狐付になり脇差にておどし咽を切ったので死去する。長福寺の過去帳に七月四日、鳳室妙高信女、安三郎妻と記されてある。この静かな山奥の村も上へ下への大騒ぎ。
 
 六日、相馬中村藩御詰合御頭志賀三左衛門様より協力方の御手当として両村に対し協力家一軒につき米一俵ずつ下さるとのこと仰付けられる(米一俵三斗二升入、代金にて一両弐分九百六十文)。両村の名主、組頭外主だった者達、六日の夜下川内村地蔵院に集まり評議する。評議の上、御領主様と違ひ、御他領相馬様よりの御手当はどうかと一応ご辞退申し上げる。志賀様はいやいや人馬共に迷惑をかけるからとの申し越し、万一西軍の密偵などが進入した場合や西軍に脅かされても協力しないように申し渡され、お受けすることになる。

 上川内村庄屋(名主)秋元権十郎(後裔者前助役秋元幸)
 下川内村庄屋(名主)佐久間与五左衛門(後裔者佐久間淳)

 両庄屋にとっては連日身の縮むような、命のすり切れるような事件が続く。

 十日の朝五つ半頃(九時頃)、富岡御代官様併に小菅様其の外川前村猟師十六人富岡詰の分引上げ、下川内村庄屋与五左衛門にお出になる、昨日上三坂辺へ西軍三百人ばかり集り川内方面を窺うと言ふ情報で驚き夜の四つ半頃(十一時頃)出足度し、下川内村へ急ぎ参りたる由、上川内村庄屋秋元権十郎
へ御沙汰、早速権十郎参りて話しをきき相馬様詰合へ通知、相馬様詰合より川前辺まで探索に出る。十日には西軍が官軍として川内方面を攻撃するとの流言がとび婦女子、子供、老人達をそれぞれ山奥へと避難させ村中大騒ぎ。

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 十一日、戸渡の十文字山裏に西軍約百人余り籠居とのことにて戸渡道切ふさぎ地へ見張り猟師を六人ずつ交代で差出す。

 十二日、猟師十五人戸渡道堅めに出す。相馬様四十人とばかり御出でになり下川内村西山を陣所として西山文右衛門(後裔者渡辺昭)、甚十郎(後裔者渡辺卯一)両家に入る。追々人数増加二百人ばかりとなり、原庄屋佐久間与五左衛門宅、長助宅、地蔵院の三軒に分宿する。

 十三日、八つ半頃(未明三時頃)、相馬様、上川内新田口へ百人ばかり、戸渡口へ四十人ばかり、其の外上川内猟師十八人、下川内猟師十人も相添へ繰出しになる。十三日は風雲急をつげ、平城西軍の総攻撃をうけ朝より夕方まで大砲打合せの音聞える。

 夕刻平城落城。

 十四日、平藩、中村藩、純義隊惣人数五百人斗り下川内へ繰込、与五左衛門へ相馬、与兵衛方(後裔佐久間長助)平の城代家老、上坂助太夫様泊る。平の殿様は上川内村長福寺に泊る。

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 十五日から十六日にかけて、新田口、戸渡口、木戸竜田口、それぞれの山道を通り落人、怪我人、老人、婦女子など上川内村、下川内村に憔悴しきった姿でぞろぞろと入りこむ。

 十六日は、其の極に達し、平藩の怪我人、病人、婦女子、老人は数百人になり上川内村、下川内村に繰込み、村中てんやわんやの大騒動。 』

 村人の協力に対する相馬中村藩からの御手当を「御領主様と違う」と言って断り、騒動に驚いて狐付(パニック状態)になる婦人がいたりと、それまでの川内村が、幕府(直轄地)の庇護下でいかに平穏な暮らしを続けていたかが想像できる。しかし、かえってそのことが明治時代になって川内村に新たな騒動を呼ぶことになるのだが・・・、それは後のお楽しみ。

 次回は再び村人の視点で、金右衛門という人の口伝を正人氏が伝えます。

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