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井出正人著『満天星』より その9 -山村川内の幕末史 ぱんぱん爺ちゃん-

 朝晩冷えるようになって代表の通勤路の街路樹が赤く色づいて来た。しかし、川越の紅葉は川内村の紅葉とは比べようもない。もちろん、川内村の紅葉が何倍も鮮やかだ。代表は、もう一度、川内村の紅葉のいちばんのピークのときに立ち合いたいと思う。徐々に色づいていって、冷え込んだ朝に、まさに燃えるようにという言葉通り一斉に紅葉する。山が燃える。あの瞬間にどうしてもまた出会いたい。さわさわと音立てて落ちる葉吹雪を両手で受けたい。

 例年よりも遅れていると言われている福島の紅葉だが、寒さが増せばとうぜん加速する。このところの冷え込みでどれだけ進んだか。明日の川内村行が楽しみだ。

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本日は、井出正人著『満天星』から、正人氏の祖父ぱんぱん爺ちゃんの幕末史です。
『 井出正人著『満天星』より その9 -山村川内の幕末史 ぱんぱん爺ちゃん-

 ここに祖父、武八について二~三記して見たい。

 武八は明治元年生まれであるから、幕末については直接は知らないが父惣兵衛、母カクからは強烈に語り聞かされたことと思ふ、豪放磊落で若い時から剣道をよくし、区長や村議などをし、晩年は木間々庵を隠居所として四十年間も自由気儘な生活を送っていた。

              ぱんぱんじいちゃん

 特筆すべきことは、この高台に板木を建て、朝、昼、夕と日に三回板木を打ち鳴らし村人に時を知らせ三十年間休むことなく続けた(現在のサイレンの役割をした)<注1>、無償で続けたから感心する。里人はぱんぱん爺ちゃんと呼んで親しんでいた、よく孫の私達は爺ちゃん今日はおれにぱんぱんを叩かせろとせがんで打ったものだが、この打ち方は山鹿流の陣太鼓のように打つのだと教えられたものだった。

 この堅い板木が永年に亘り打ち続けたのでのの内穴があき、又新しいのと取り換へ、又穴があくと言ふ具合で隠居の裏に重ねておき、これを全部風呂焚きにしてしまったこと今にして思いば惜しいことをしたと思ふ。
 昭和二十六年十月三十一日死亡、八十四才。

 亡くなる一ヶ月ほど前に私を枕元に呼んで、孫々、大事な遺言がある。向山、木間々庵の屋根裏に平の殿様から頂いた刀がある、隠してあるからその内世に出しても良い時代が来たら出すように、それまでは誰にも話さず隠しておけと言はれた。

 早速山小屋へ行ゆき外からハシゴをかけて屋根裏を捜したら棟木に神社や仏のお札が大きく束ねて吊るしてあった。その中の木箱に大小五振りの刀が入っておりその内の一振りが、三条宗近作であった。其の後、昭和二十八年に届出て所持許可証を頂いた。

[ 一振 
  平安藤源一滴善童女 遺品
  三条宗近の在銘
  銃砲刀剣登録証
  登録記号番号、福島県七五一七号
  種別、わきざし長さ一尺七寸七分
  銘文表、三条宗近作とあり
       文化財保護委員会
  昭和二十八年五月六日発行 ]

 祖父武八、祖母キンについては子供の頃の想い出が深い、曾祖父惣兵衛の時代に早渡から上川内集落の中心部町分に移り大きな家を建てる。
 家の中を風が吹きまわし寒い冬など大きな囲炉裏に焚火をどんどん焚いて大きな鍋に馬に食はせる麦やいも、カボチャ、大根などを煮ながら孫たちにいろいろな昔話をしてきかせた、ぢいちゃん昨日の続きをきかせろとせがみ長い棒の先をとげて薯などを突いて取りフウフウ吹きながら食い話しをきくのが面白かった。
 ぢいちゃんは何でも知っていた(幕末については生まれた年だから知らないはずだが)。
 平の殿様や家来衆は長福寺に行って泊った。早渡の我が家にも数人の方が泊り、お姫様のお通夜をした、昔のばあちゃんの話しによると裏の破れ障子の穴から子供たちがそっと覗くと、「よく見ろよ!」お姫様はおめいらのようなガキと異なって行儀が良いから少しも泣かないで静かに眠っていると言はれ感心していたと・・・・・・。 』

 <注1> (現在のサイレンの役割をした)とあるが、サイレンは昭和末期に廃止になり、現在は有線放送を使ってメロディが流されている。一日二回、朝6時と夕方5時は変わっていない。

 それにしても正人氏は構成をよく計算しておられる。
幕末の巨大な奔流が山村川内と井出家の人々を呑み込む様子を、カメラを引くようにして徐々に全容を見せて行く。

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