富岡営林署のバスだった

 ひとの駅に置いてあるボンネットバスには富岡営林署のプレートが貼られている。登録年は昭和40年と記録されているから、代表が10歳の時だ。その頃、こういうバスが新車で、営林署の職員や作業員を乗せて川内村を走っていたわけだ。

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 「富岡」と「営林署」。今となってはどちらも懐かしい響きを持った言葉だ。

 以前も紹介したことがあったが、川内村は「天領」と呼ばれる江戸幕府の直轄地だった。なぜこんな僻地が天領になったのかというと、相馬藩と平藩とが領土争いをしないように緩衝地帯として設けられたからだという。おかげで川内村の人たちは山林を自由に使うことができた。他所に行くとよく目にする「私有地に付き立入り禁止」の看板が無いのは、山林はみんなのものという不文律が川内村にはあるからだと思う。

 大政奉還によって江戸幕府から天領を引き継いだ明治政府は、国有地として立ち入り禁止にした。川内村民にとっては死活問題だったので、明治政府を相手に裁判を起こした。艱難辛苦の末に勝訴。そのほとんどを村有地にできたのであった。しかし、犠牲も大きかった。初代村長は訴訟の先頭に立ったが、結果的に全財産と命を失った。それがあっての川内村なのである。

 太平洋戦争後、多額の裁判費用を賄うためと、建築資材とエネルギー不足に応じた動きとで木材の需要が増え、川内村は原生林を片っ端から伐採して売った。林業従事者が川内村に入ってきて、それに伴って2次産業3次産業も活況を呈して川内村がもっとも賑やな時代を迎えた。映画館が2つもあったんだから。代表の親父もそのときに製紙会社の山の管理人として茨城県から川内村に来た。そういう活気が続いたのが戦後25年くらいまでだったか。

 やがてブームが去って、川内村の林業は衰退した。富岡営林署は大きな組織だったが、無くなってからもう40年くらい経つんじゃないだろうか。ボンネットバスはその時代に連なって多くのことを語りかけているが、この辺でご苦労様と言って眠ってもらった方がいいのか、醜い姿を晒させてでもまだ語り続けてもらった方がいいのか。代表は悩む。

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 「こんな醜い姿を晒したくない。もう楽にさせてくれ。」とバスが言う。泣いて訴えているようにも見える。代表もそうしてやりたいと思う。同時に、本心は残りたいんだというバスの気持ちも感じる。だが、残れというのは醜い姿を晒せということと同じだから、辛さを強いることになる。バスにとってどっちが幸せなのか。

 それをバスに言わせてはいけないんだと思う。代表が腹を決めて、バスに言ってやらないといけないことなのだ。
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コメント

美か醜か
富岡の町民としては、このバスを応援してみたくなりますが、内政干渉ですね。

ただ資本主義社会の常識で判断するとこれは単なるガラクタにすぎませんが、絵描きの目で見ると限りなく貴重な題材としての価値がありそうです。

そこいらじゅうに防波堤を作って海岸線の風景が破壊されていく現状は悲しいですね。

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