旅に出ていました

 代表は旅に出ていた。旅とは言ってもバスや電車に乗って行く旅ではなく、心の旅だ。心を旅に遊ばせつつ団地の仕事の資料を作っていた。まあ、現実からの逃避というわけだね。団地の仕事はたいへんなんだ。やりたくないなーと思っているからたかが資料作りがなかなか進まない。ほんとうにいい加減にあきらめて団地の仕事も攻めの姿勢に転じないといけない。時間を無駄にしている気がする。

 松尾芭蕉は『奥の細道』の冒頭でこう書いた。

「月日は百代の過客にして、行かう年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず」

 世の中のものすべてが時の流れに乗った旅人。乗らないわけにはいかないが、しかし、行先は自分で決められる。

 ところで、花門の常連さんの中で7月から福島県の広野町に住むことにした人がいる。代表の右隣の、メガネをかけて髭を生やした御仁でキタミさんという。

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 潮の香りがする広野の駅前あたりに会社の拠点を移して新規に事業を開拓しようということらしい。聞けばIT関係の仕事だということなので、基本的に北海道でも沖縄でも場所はどこでもやれるとは思うけれども、もっと仕事がやりやすい便利のいい場所の方が合理的だと思う。あえて広野なのは、自らを不利な状況に追い込んで、そのときに湧くだろう生命力、底力に賭けるという意気込みのようなものが伝わってきた。団地の仕事から逃避している自分が恥ずかしくなった。

 キタミさんは、花門のマスターのマンスールさんの画の先生の鶴田松盛さんの大学の法学部の直系の(のが多くなってしまった)後輩だという。情熱と人脈と運。そして健康と人間的魅力。ぜんぶ持っているね。キタミさんは必ず新しい価値を産みだしていだろうし、彼のエネルギーが原発被災地を変えていだろうと思う。楽しみだ。
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 俳人芭蕉が綴った『おく(奥)のほそ(細)道』冒頭の一節である。この書き出しが余りにも有名であるのは、ただ文体の歯切れがいいとか、名調子であるというだけでなくて、そこに芭蕉の「旅」の哲学があり、その生涯を旅に求めた結論とでも言うべき、過客の魂を述べたものであるからにほかならない。
 元禄2年(1689)、芭蕉48歳。随行の、門人曽良41歳。
 芭蕉がみちのくへの旅を思い立ったのは、歌人西行や能因の放浪の境涯を慕い、みちのくの歌枕を訪ねることにあった、と言われる。このことは、すでに多くの人が指摘している通りである。つまり片雲の風に誘われ、能因の「都をば霞と共に立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(『後拾遺集』)といった歌心を、みちのくの空に追体験したい。それが『ほそ道』の旅の動機であった、というのである。ただしかし、芭蕉の旅は歌枕的世界に自己を同化するための、それだけの旅ではなかった。芭蕉にとって「旅」とは、旅をしたくなったから旅に出るというのではない。旅を栖(すみか)に、という旅であった。それが『おくのほそ道』冒頭を飾る芭蕉の結論であったといえよう。旅は、旅する人にとって、新しい土地の風景、そこでの人との出会い、その地方の歴史への感動を眼前に展開してくれる。芭蕉の風流心がそれに大きく震動して、筆を執り、出来上がったのが『おくのほそ道』なのである。それは正しく“風雅の旅の道しるべ”である。
 『おくのほそ道』は、紀行文とはいっても日時や天候・旅程の正確を期して綴ったものではない。それは第二義的なことに過ぎない。しかも『曽良随行日記』の記述と比較して見ていくと、随所に改変・虚構のあることがわかる。後日、筆を加え推敲(すいこう)を重ねた、これはむしろ創作・散文とみなした方がいいのかもしれない。
 いま、旅中での発句を後に改作した、二、三の例を興味にまかせて掲げてみると、日光の「あらたふと」の句も、曽良がその場で聞きとって綴った「書留」には、
 あなたふと木の下暗も日の光
であった。これを改作して、
 あらたふと青葉若葉の日の光
ができた。
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コメント

きたみさんとは2回ほど合っているはずだとマンスール君は言っていたが、八木澤さんの今日の写真で見る限り、合った記憶はない。今日写真を見せてもらい顔を知ることが出来て良かったです

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