FC2ブログ

東京藝大卒業・修了作品展へ行く その3

 東京藝大卒業・修了作品展へ行くときに東京藝大の成り立ちについて知ることは無意味ではない。

 東京藝大創設者のひとりアーネスト・フランシスコ・フェノロサ。1853年生まれのアメリカ人。

【アーネスト・フランシスコ・フェノロサ】
14012801.png

 この人がいなかったら藝大どころか日本文化そのものが残っていなかったかもしれない。誇張ではなく、全国の寺の仏像は薪にされて灰になっていただろうと思う。明治は、政府の西欧文明崇拝と神道に権威を与える政策とで、寺の僧侶が神官にさせられるくらいの激動の時代だった。繊細な日本古来の文化はその渦中で消滅していたに違いない。

 その流れを止めたのがフェノロサだった。アメリカにも西欧コンプレックスはあったはずであり、アメリカ人だからこそ見えた西欧文明に侵食される日本国の危機的な姿というものがあったのかもしれない。また、日本文化の衰退に待ったをかけたのが日本人ではなくアメリカ人だったというのも皮肉な話なんだが、アメリカ人の発言ゆえに日本側が受け入れたという日本人の欧米コンプレックス的側面はあったと思う。しかし、フェノロサは実際に行動を起こしたのであり、その動機に一切の打算はなかった。日本の美術を守りたい一心の曇りのないものだった。

 ハーバード大で哲学を学んだあとボストン美術館の絵画学校に入学したフェノロサは、1878年9月25歳のときに東京帝大の求人情報を見て渡日する。来日してすぐに、仏像や浮世絵などの様々な日本美術の美しさに心を奪われ、東京帝大で哲学と経済学を教えながら、古美術品の収集や研究を始めると同時に鑑定法を習得し全国の古寺を巡った。

 やがてフェノロサは、日本人が日本美術を大切にしていないことに衝撃を受ける。日本人が考える芸術は海外の絵画や彫刻であり、日本古来の浮世絵や屏風はゴミ同然の扱いだったらしい。

 ここでフェノロサは、日本美術の保護と復興に立ち上がる。自らの文化を低く評価する日本人にいかに素晴らしいかを説いて回る一方で、文部省にかけ合って美術取調委員となり、学生だった岡倉天心を助手にして、京都や奈良で古美術の調査を開始した。

       【岡倉天心】
14012805.png

 その当時誕生した長男にはカノーと命名している。もちろん日本の絵師集団狩野派の狩野だ。フェノロサ自身のちにキリスト教を捨てて仏教徒になった。そこまで日本文化と日本美術の虜になっていた。

 そうしているうちに想いはさらに強まる。「浮世絵や仏像など過去の作品ばかり振り返っていてはダメだ。日本人は新しく芸術を生み出すべきだ。」と考えて、1888年、文部省職員になっていた岡倉天心といっしょに日本初の芸術教育機関、東京美術学校(現東京藝大)を設立する。岡倉天心が初代校長となり、フェノロサは副校長に就いて美術史を講義した。ようやく東京藝大が産声をあげたわけだ。

 しかし、東京藝大誕生の最大功労者フェノロサは、1890年に日本政府との契約が満期終了となったため、帰国してボストン美術館東洋美術部長に就任する。それ以降も日本美術の紹介に尽力しつづけたものの、1908年にロンドンで開催された国際会議の滞在中に心臓発作で急死してしまう。享年55歳。戒名は「玄智院明徹諦信居士」。分骨された遺骨が琵琶湖を見渡す三井寺・法明院に埋葬されている。

 以上が東京藝大ができるまでの経緯だ。東京藝大の学生にはフェノロサと岡倉天心の「日本の文化を大事にして、日本人自らの芸術を生み出してほしい」という希望が託されているわけで、藝大に在籍する以上そのことを背負わざるをえないのだと思う。その藝大生に託された願いへの答えが、希望や十字架となって、作品中に落とされたのが見つかることがある。それを探すことは東京藝大卒業・修了作品展だけの楽しみ方だと思う。

つづく

コメント

恩人
フェノロサとか岡倉天心の名前くらいは知っていましたが、その業績までは詳しく知りませんでした。
日本美術の恩人なんですね。
勉強になりました。
代表はかわうちむらのフェノロサなのでは?!
そう思いました。
日本人が日本の美をわからなかったように、
かわうちむらの人がその良さに気づけるように、
がんばってますもんね。
ほんとうに、フェノロサのように生きたいものです。こんなに豊かで何でも希望が叶う時代に生まれながらなんとみすぼらしい心の人間ばかりなのかと思います。せめてフェノロサや天心の志だけでも持ちたい。

管理者のみに表示

トラックバック